ひたちなか市ピアノ教室 講師紹介

将来の夢はピアノの先生

茨城で生まれる。

4歳から日本舞踊を、5歳からカワイ音楽教室でピアノを始める。

幼稚園の卒業文集の将来の夢に、ピアノの先生と書く。

どちらも楽しく通っていたが小学校に入ると体を動かすことが大好きで、男の子に混じって器械体操クラブや水泳少年団で市の大会で活躍する。

高学年になると児童会役員や合奏クラブに入り、自分で編曲したスケーターズワルツを指揮したり、劇の脚本を書いて演出、主演したり、のど自慢大会に出場したり、親戚の結婚式ではよく歌ったりするようになる。

 

真っ黒日焼け

中学校に入るとテニスに夢中になり、副部長を任され、全身真っ黒に日焼けしていた。

高校に入っても生徒会役員をしながらテニス入魂の日々。

部活はもちろん、早朝トレーニング、休み時間も一人壁打ち、授業中も机の中で握力トレーニングをするほど、寝ても覚めてもテニス一筋。

しかし高校インターハイ強化選手に選ばれて、その強化合宿で挫折を味わう。

もともと食べるのが遅く、食が細かったため倒れてしまう。

練習したいのに体がついていかない。

胃袋の違いに愕然とする。

胃袋で自分の限界を知る。

 

『あっ、私にはピアノがある。』

日本舞踊は2年で辞めてしまったが、ピアノはずっとなぜか続いていた。

ピアノレッスンの日は、自転車で部活から帰る時間に合わせ、母が車のエンジンをかけ玄関横付けで待機。

おやつを口にくわえ急いで着替え、速攻ピアノのレッスンに向かう。

部活をしながら中高時代ピアノのレッスンに通えたのは、母の協力のおかげである。

感謝!

そこで高校2年の秋でテニス部を退部し、ピアノの道を志す。

専門のピアノ・ソルフェージュ・楽典の先生に高校2年の冬から学ぶ。

アップライトピアノは次々と弦が切れるほどの猛練習。

いざ受験となり親に相談すると、「家から通える大学以外はダメ。」と言われる。

家から通えて音楽が学べるのは、茨城大学教育学部音楽科しかない。

ほとんど勉強をしてこなかったので、共通一次試験で撃沈。

何としても音楽の道に進みたい一心で浪人を頼み込む。

 

首席で卒業

ここから勉強の日々

ところがここで勉強の楽しさを体感する。

分からないことが分かってゆく喜び。予備校の先生の熱い指導。

仲間の熱気.。

全てがとても新鮮で快感ですらあった。

一浪の末、茨城大学教育学部音楽科に合格。

『よしこれでアノを思う存分ピアノが練習できる。』

家にはグランドピアノがなかったので大学のグランドピアノで思う存分練習ができるのはもちろん、声楽・オペラ・合唱・吹奏楽も学び、音楽の幅を広げる事がとても楽しかった。

また、大学1年の時、クラリネットの伴奏を依頼されると、2年ではソプラノ、3年ではフルートとバリトンの依頼を受け伴奏者として経験を積む。4年の時にはピアノソロに徹し

首席で卒業。

茨城県新人演奏会に出演する。

 

着任2年目で県大会出場

大学卒業後は公立中学校に音楽教諭として勤務。

まず廃部寸前の吹奏楽部の顧問を引き受ける。

人数が足りないので、春の総体で引退した野球部とバレー部の生徒に声をかけ打楽器を受けもらってもらい、夏になんとかコンクールに参加出来た。

秋の音楽会では吹奏楽部員だけでは編成が厳しいので全校生合唱をコラボさせ、さながら第九の雰囲気で何とかステージを作る。

2年目には、なんと!吹奏楽コンクール県大会出場を決める。

秋の音楽会ではオペラ魔笛のラストシーンを、シンセの自作音源に、裸足にシーツをまとった衣装で演出。

全校生徒総出演のステージ。

しかし、ここで結婚問題が持ち上がる。何とか両親を説得。

これまで、教員をしながら、ピアノ演奏を続けていたが、家庭と教員とピアノの三つの両立は困難と判断し、教員を退職する。

 

ピアノ教室スタート

実家と嫁ぎ先の2ヶ所でピアノを教え始める。

長男長女を出産し両家の両親に子供をみてもらいながらピアノを教える仕事を続ける。

門下生からは、合唱伴奏オーディション合格者、音高・音大合格者、保育士、教員、管楽器奏者、ピアノ指導者を輩出する。

 

ドクターストップ

結婚8年目に三人目の子供を妊娠。

妊娠6ヶ月に入ると、早産の危険があるということでトイレと食事の時以外は動いてはいけないというドクターストップ。

2人の子供を連れて実家に戻る。

上膳据膳の日々。

9ヶ月に入るとお腹の子が苦しそうなので早く出してあげあげましょうと言われ帝王切開。

 

滝の涙

一瞬だけ声がしたが仮死産の状態。

人工呼吸器やたくさんのチューブに繋がれ集中治療室で一命を取り留める。

私が先に退院することになり、退院面談でダウン症の告知を受ける。

血の気が引き倒れこむ。

なんとか主人の運転する車の助手席にたどり着くが、目からは大量の涙が滝のように流れ出す。

風を感じただけで滝の涙。

ありの歩く姿を見ただけで滝の涙。

上の子が幼稚園から帰ってくると涙。

主人が帰ってくると涙。この日々が続く。

1か月後なんとか子供が退院し帰って来た。

とても静かな子で、お腹がすいたと言って泣くことは全くなかった。

 

ママ泣かないで

その子がある日突然泣き声を上げた。

それは私が泣いていたから。

『ママ泣かないで!ママが泣くと僕悲しいよ!』と言っているような気がした。

母乳を自分の口で吸う力がない我が子が、初めて出した泣き声。

一体私は何をしているのだろう。

私が泣いている場合ではない。

この子は生きようとしている。

頭をガーンと殴られたようなこの瞬間、私は目が覚めた。

 

次から次へと来る困難

ちょうど教え子が音大を卒業したり、音楽科の学生になったりしていたのでピアノの生徒のほとんど託し、私は進んだ生徒を週1日教えることで子育てとの両立を図る。

しかし、肺動脈狭窄症が見つかり、入退院を繰り返す日々。

ピアノに触ることすらできない。

この状況で何かできることはないかと模索。

看病しながら、通信教育でリトミックを学び、一音会の絶対音感インストラクターの資格を得る。

子供たちの成長に合わせ、少しずつ仕事に復帰し、ピアノ教室20周年記念発表会を開催することができた。

しかし、この頃から今度は、両親に認知症が出始める。

私ができることは、ピアノを教えてあげることぐらい。

認知症の母にピアノで単旋律の「ふるさと」を弾けるようにしてあげると、母はとても喜んでくれた。

ピアノの発表会にも出演。

自分が弾いたことも覚えていないらしく、「私の番は?私本当にピアノ弾いたの?」のと何回も何回も言っていた。

 

音楽の都ウィーンへ

その両親を看取り、ピアノ教室30周年記念発表会を迎えると、もう一度ピアノを学び直したいという思いにかられる。

そこで、ウィーン音楽講習会に参加。

ウィーンに身を置くことで得られるインスピレーションはものすごく大きく、言葉では表現できない。

言葉で表現し尽くせないもの、光・風・水・川・海・空気・気配・感情これらを、作曲家と対話しながら自分の感性に落とし込み、伝えることが音楽。

これを自分の指を通しピアノで奏でることができる幸せ。

この幸せを皆さんと分かち合いたい。

これが私の指導の原点。

今年に入ってからは、オンラインでウィーンやドイツの先生方のピアノレッスンを受講。

また、生徒たちの学びの機会を少しでも失わせたくないという思いから、ハイブリッドピアノレッスン(オンラインレッスンと対面レッスンを融合させたレッスン)を展開している。